弁慶さんルート・2月 − 如月 四
典薬頭・和気定成は、真っ直ぐに弁慶を見つめて、こう言った。
「龍神の神子の世界の医療に関する知識を、と」
「龍神の神子の……、ですか?」
「左様」
「……」
「弁慶殿」
「分かりました。ただし、僕も龍神の神子の世界の医療をすべて知っているわけではありません。
それどころか今度の一件で、すべてを分かった気になっていた自分を反省しているところです。
龍神の神子の世界の医療に関する知識といったものは余りに巨大な山で、
僕はホンの小石を1つ2つ拾っていたに過ぎないようです」
「御謙遜を」
「いえ、謙遜などでは無いのですよ……。
ああ、それと、お教えするには条件が1つあるのですが、飲んでいただけますか?」
「条件?」
「ええ。それを聞き入れていただけたなら、
そう、あなたの仰るところの『龍神の神子の世界』の医療知識で
僕が知っている事はすべてお伝えいたしましょう」
「して、その条件とは?」
「それは」
「おい、お前達! 医得業生! 典薬頭様の御命令だ! この者達の半分を櫛笥小路に移動させるぞ」
「櫛笥小路? なんでまた?」
「野宿させると、返ってこの疫病が悪化するとのことだ」
「下賤の者共がどうなろうと、知ったことでは」
「頭様が仰るには、病状が悪化した者が増えれば増える程、
この病が流行って、更に多くの者に猛威を振るうことになるのだそうだ」
「更に多くの…」
「猛威……」
「すでに薬園部の者と呪禁部の者が、何人か先に櫛笥小路に行って、受け入れの支度を調えておる。
それと、典薬寮の者は全員、これを着用しろとも御命令だ」
「それは『まそく』とかいう布キレでは?」
「以前の試験で、それはただの布でしかないという結果が」
「下賤なまじないなど、私は断る」
「頭様の御命令だ!
こう、鼻の両脇と顎の辺りに隙間が出来ぬようにして着用するんだ、いいな。
武蔵坊がそう言っていた」
「何だかあのクソ坊主に頭様、良いように丸め込まれたんじゃ無いのだろうな」
「文句があるなら直接、頭様に言え。俺は伝えたからな」
医博士が慌ただしく去った後、医得業生2人は口々に不満を言い合った。
「チッ、何でこの私が、下賤な連中のまじないをやらにゃならんのだ」
「俺の父上は従六位下の貴族だぞ……。
俺は典薬寮で博士となり、いつの日か父上を越えて昇殿を許させる貴族となるんだ……」
「面倒なことになったな。どうする?」
「どうするって、頭様の御命令に逆らうわけにはいかないだろう」
「そうだな……」
医得業生は立ち上がり
「いいかぁ! 貴様ら! お前から、そっちの篭を抱えた女、お前まで全員立て! 歩け!」
そう叫んだ。
「歩けってどこまで歩くんどす?」
「櫛笥小路だ」
「何でそったらところまで歩かにゃぁならんのだ」
「オラ達ぁ、弁慶様に診てもらいたくて、こうして待ってんだよぉ」
「うるさい! 黙って言うことを聞かんか!」
「辛いんだよぉ、今歩くのはぁ……。ちぃと待ってくれんかね」
「ならんならん! 立てぇ!」
「無理だってばよ。この子は熱が高いんだから」
「おらも、こうしてる方が身体が楽だよ」
「貴様らぁ! 下賤の分際で言うことが聞けんのか!」
男が刀に手をかけたその時
「う! ゴホンゴホン! ゴホン!」
もう片方の男が急に咳き込み始めた。
「お、お前……」
刀に手をかけた男はたじろいで後退った。
「そういえばお前、昼飯時から身体がだるいとか言っておったな」
「え?」
「お前、この流行り病に……」
「バ、バカな……。て、典薬寮の医得業生である俺が、流行り病……ハハハ、ま、まさか。
だ、だるいって言ったおったのは、その、ほらあれだ、五条くんだりまで出向くのが面倒だったから」
「大飯喰らいのお前が、今日は昼飯をあまり食わなかったな、そう言えば」
「それは、今日の汁モノが不味かったからだと……。お前も賛同しておったではないか」
そう言いながらも、男は背中と脇に嫌な汗が流れるのが分かった。
この汗は……? 冷や汗? 脂汗? それとも……、ま、まさか……
刀に手をかけていた男は刀から手を離し、先程手渡された『ますく』を慌てて装着するのだった。
「弁慶様、川原に居た人達のほとんどが移動し終わりました」
『すたっふ』の報告とほぼ同時に、
マスクをした和気定成が嬉しそうに入ってきて、弁慶に告げた。
「弁慶殿。仰られたとおり、動くのが辛そうな年寄りは板戸に乗せて六条堀川の源氏屋敷の方に、
典薬寮の得業生達に命じて運ばせました。
歩ける者達にはその先の櫛笥小路まで歩いてもらって、梶原屋敷に入らせましたぞ」
「ご苦労さまでした。お疲れになったでしょう」
「いや、私は指図しただけですので。しかし、よろしかったのですか。弁慶殿」
「はい?」
「源氏屋敷も梶原屋敷も、主が弁慶殿と旧知の仲とは申せ、
許可を得ることも無く、かように大勢の者を勝手に泊まらせてしまって」
「緊急事態ですからね、九郎も景時も分かってくれますよ……。たぶん、ですがね。
フフフ、さ、なるべく暖かくして寝るように伝えないといけませんね。
それと、水分をしっかりと摂るようにとも」
「それも?」
「ええ、『龍神の神子の世界』の治療の一端です」
「そうですか」
そう言って典薬頭・和気定成は熱心にメモを取っていた。
「その事は配下の者に伝えさせましょう」
「水分は、……そうですね、できたら、すごく薄めてあってもいいので
麻黄湯に、酒と塩をほんの少し入れたものがいいでしょうね」
「『酒と塩』……ですか?」
「ええ。麻黄湯の『麻黄』と『桂皮』は発汗・発散作用があります。
『杏仁』は咳を鎮めてくれますし、
『甘草』には病状の緩和作用があります。
ま、これについては典薬頭・和気定成殿に講釈する方が、釈迦に説法でしたね。
『麻黄』にはエフェドリンという成分が含まれているそうです」
「えふぇどりん……?」
「このエフェドリンの薬効は、咳やゼイゼイする喘鳴をおさえるのです」
「『えふぇどりん』……は『ぜいぜいをおさえる』ですか」
「ええ、そうです。
そして、これらの薬効による発汗作用によって、その汗と一緒に体内から失われるのが体温と塩分です。
それをコントロール……、制御・統制しているのが糖分と塩分なのです」
「『こんとろぅる』は『制御・統制のこと』と。……で?」
「こちらの世界の酒は発酵度合いが低く、かなり糖分が含まれた濁り酒ですしね」
「というと、龍神の神子の世界の酒は濁っていないのでしょうか?」
「おや、定成殿はいける口ですか?」
「いや、まぁ、そう、かな」
「望美さん、いや、龍神の神子の世界の酒は……、そうですね、
例えるなら、南都の諸白ですら足下にも及ばない程で」
「なんと! 私は1度だけですが、法住寺で正暦寺の『菩提泉』を頂いたことがありますが
あの清らかな舌触りと馥郁とした味わい……、あのような酒は……。
その『菩提泉』ですら足下にも及ばないとは……」
「え、ええ、驚かれるのももっともですが。
……話を本題に戻してもよろしいでしょうか?」
「あ? ああ、申し訳ない」
「いえ、いいのですよ。それに、多少でしたら、龍神の神子の世界の、酒の作り方を覚えて来ましたので」
「本当ですか」
「ま、この流行り病が落ち着いたならば、ですね。で、本題に戻りますが」
「そうですか。それは、この流行り病を終息させる励みとなりますな」
「本題、よろしいですか」
「あ、ああ。どうぞ」
「条件というのは、川原にいた人達を六条堀川と櫛笥小路に運んでもらうことではないのです」
「え?」
「ここからが本当の条件になります。
実は、先程も申しましたが、僕は龍神の神子の世界に行き、その世界の医学書を読み解いて来ました」
「おお、やはり」
「しかしそれは、どうやら入門書に過ぎなかったらしい」
「なんと」
「ですから、もう一度あちらに行って、この流行り病、
あちらで言うところの『インフルエンザ』という病名だろうと当たりをつけているのですが、
これの治療法を早急に調べて来ます」
「『いんふるえんざ』……。し、しかし、何もそこまでなさらずとも、今の弁慶殿の知識でも充分に」
「いえ」
弁慶は真顔で和気定成を見つめて言った。
「この流行り病を甘くみてはいけません。症状は風邪に似ていますが、ヘタをすると」
「ヘタをすると?」
「『パンデミク』とあちらでは言ってますが、大流行の危険が」
「大流行なら、もうすでに」
「違うのです、定成殿。この病の恐ろしさはこれからなのです。
あちらの世界の書物には、
1度の流行でこの世すべて、それこそ唐、天竺から日ノ本、その他、僕達が知らない国々までも感染し
感染者数6億人、死亡者数4000万から5000万人を出したこともあると」
「死亡者数4000万……、想像もつかない……。地獄絵図ですな」
そう言って和気定成はゴクリと唾を飲み込んだ。
「ですから、一刻を争うのですよ」
「分かりました。で、条件とは」
「彼ら罹患者を、隔離・看護して欲しいのです」
「六条堀川と櫛笥小路に?」
「おそらくは、それだけでは済まないでしょうね」
「え……?」
「どこでも結構です。寺でも社でも、源氏や平氏の屋敷でも。
もし必要なら、お上や院のお力をお借りしてでも。
そして隔離した人達は、暖かい寝床で安静させ、先程申しましたようなモノで水分も十分に摂らせて下さい。
乾燥に気をつけて、特に体を冷やさないことと、マスクも着用も必ず。
それだけで、体力のある人なら3日から5日で回復するでしょう」
「なるほど」
「ああそれと、麻黄湯だけでなく竹如温胆湯や柴胡桂枝湯といったものも有効かと」
「竹如温胆湯は咳や痰を鎮め、柴胡桂枝湯で熱に対処するわけですな」
「それでも抗インフルエンザ薬には及ばないでしょうが……」
「『たみふる』??」
「この病は風邪とは違って悪寒、発熱、頭痛、全身の倦怠感、筋肉痛を特徴とします。
咽頭の痛み、鼻汁、鼻詰まり、咳、痰などの気道炎症状も伴います。
人によっては腹痛や嘔吐、下痢といった症状を伴う場合もありますが……」
「が?」
「合併症として、肺炎とインフルエンザ脳症があります。特にインフルエンザ脳症になったら」
「なったら?」
「龍神の神子の世界ですら、治療は難しいでしょうね」
「それほどまでに……。『いんふるえんざのうしょう』…ですか」
「ええ。ああ、病人の看護にあたる方は全員、マスクは絶対に着用してくださいね」
「それは徹底せよと通達した」
「さすがです。
この病は咳やくしゃみなどによって唾や痰などの飛沫が他人に付着することから感染するとされています。
ですから予防においては、患者も看護する側もマスクの着用が極めて有用なんです。
飛沫による感染防止には絶大な効果が」
「『飛沫による感染』……。そのような事、考えたことも無かったが…、
言われてみれば思いあたる節が多々ある」
「それと、病状の回復した人達に、罹患者の看病をしてもらえるといいでしょうね」
「どうしてでしょうか?」
「この病は一度罹って治ると、同じ病には罹らなくなるのです」
「『再発は無い』…と。なるほど、それはいい。
罹患することに恐れながら看病しなくていいのですからな。
身体が病に慣れるというわけですな」
「そうですね、そう言って差し支えないでしょう。
さすがは典薬頭、和気定成殿。理解が早くて助かります」
「いや、おだてないでいただきたい。
だからなのですな、手洗いやうがいといった行為も感染を予防する手段として有効なのは」
「そのとおりです」
「龍神の神子は、二重、三重の意味で、この世を救いたもうたのやも知れませんな」
「そうでしょうね」
「あのお方がおられなければ、
『ますく』も、手洗いや歯磨き、うがいといった習慣などは京の街には存在しなかった。
もし、これが数年前に流行ったとしたならば……、考えるだに恐ろしい」
「源平の争いに茶吉天、怨霊に、応龍……、それにパンデミクですか。望美さん……」
「龍神の神子様は、この流行り病も予見されて?」
「まさかそこまでは……。いや、確かなところは僕などには分かりませんが」
そう言って、弁慶は望美の顔を思い浮かべるのであった。
「では、次の人」
「あれ? 弁慶様で無ぇのけ?」
「無礼者! このお方をどなたと心得るのだ!
畏れ多くも天子様を観ていらっしゃる典薬頭、和気定成様でいらっしゃるのだぞ」
「まぁた、そったら嘘言うで無ぇよ。そんなお偉いお方がオラ達みてぇなモンを観るわけ無ぇって」
「ま、誰でもいいじゃないですか。
弁慶殿はちょっと、この流行り病のことを調べに遠い所に出かけていらっしゃいます。
で、留守を頼まれた代理の者です。
あ、御安心なさい、施薬や治療の方法は弁慶殿からちゃんとうかがってますからね」
「まぁた弁慶様、どっかにお出かけかぁ。
でも、オラ達のためにあん人は走り回って下さってるんだよなぁ」
「そうですね」
「あんたも弁慶様ぁ見習った方が良いっちゃねぇかな」
老人は定成の隣に立つ若い医得業生に向かって真面目な顔で言った。
「ぶ、無礼者!」
「こらこら、お年寄りに向かって何ですか」
「は、す、すみません」
「申し訳ないですね。ここのところ流行り病の診察で忙しくて、ちょっと気が立ってるんですよ」
「腹ぁ減ってんだか? これでも食うか?」
「これは?」
「弁慶様に食ってもらおうと思って持ってきた川魚だよ」
「弁慶殿、早く帰ってくるといいですね」
「んだぁな」
和気定成は、弁慶の早い帰還を誰よりも祈るのだった。
諸白よりも清らかな『龍神の神子の世界の酒』を思い描きながら。
10/07/11 UP